読み物: 2009年12月アーカイブ

さて、クラウドの代名詞といえば、SaaSつまり、Software as a Service なのだろうと私は思っている。しかし、SaaSがどのようなものか、という理解はかなりブレている。これがクラウドを最も見えにくくしている元凶なのではないだろうか。そもそも、「クラウド」なんて言葉がはやるずっと以前から類似のものは別の名前で存在していた。いわゆるASP(Application Service Provider)である。多くの人は、いまだに、この区別がついていない。SaaSをうたい文句にしている(その多くは、ついこの前まで自分たちをASPと称していた)サービス事業者の多くもしかりだ。

1章で、これまでの情報システムとそれをとりまく環境の流れを書いたのだが、それにあてはめて考えてみよう。ASPはお手軽な形で、必要な情報システムを手に入れられるという意味では、SaaSと同じではある。しかし、ASPは多くの場合、自分のサービスだけの世界で閉じている。つまり、それだけで最低限必要なすべてを提供するかわりに、それ以上のもの、たとえば機能やスケーラビリティを望んでも、それは事業者をのりかえるしか方法がない。しかも事業者を乗り換えれば使い勝手は大きく変わってしまい、利用者を戸惑わせることになってしまう。

さて、そこで質問だ。どのようにすれば、スケーラブルでなおかつ、適宜必要な機能を低コストで追加していける情報システムを作っていくことができるのだろうか。

この答えはすでに出ていると思う。それは、SaaSをSOA化されたバックエンドサービスとして扱うことだ。SOAという視点から見たSaaSは、ユーザIT部門を、縛り付けられていたパッケージから解放するものだ。特定のパッケージを使ったり、自社で開発するのだったら、SOAのありがたみはない。部品として使えるサービスが選べてはじめてSOAの意味があるのだとすれば、SaaSこそが、それを可能にするものだと私は思っている。つまり、逆の言い方をするなら、そういう使い方ができないSaaSはSaaSではなく、単なるASPである。もちろん、独自のUIは、それのみを使いたいユーザにとっては必要だ。しかし、より高度なことを考えるユーザにより一般的な機能をサービス(API)として提供できることが、SaaSの条件だろうと思っている。

 

(続く)

IaaSが、インターネットにおけるISPだとすれば、PaaS(Platform as a Service)は、さながらクラウド基盤の上に構築されたレンタルサーバやホスティングサービスだろうか。いささか、この定義はIaaSともかぶるが、大規模分散と仮想化環境の提供がIaaSだとすれば、PaaSは、その上に作られた個別のホスト環境や、そのうえで、様々なサービス構築のためのツールを提供するようなサービスだと言える。

PaaSのレベルは様々だ。有名なところで言えば、Amazonは、個々の利用者に仮想マシンつまりOSを載せる環境を提供できる。そのぶん、スケーラビリティはある程度制限をうけるものの、利用者の自由度は高く、様々なソフトウエアをその上で動作させることができる。一方で、Google が提供する Google Appエンジンは、Webサーバとそのうえでアプリケーションを構築するための Python による開発環境と様々な Googleが提供する機能やアプリケーションへのAPIを提供している。できることは制限されるが、この環境自体がGoogleの大規模分散環境にのっかっていることから、アプリケーションを変更することなく、小規模から超大規模のサービスまで柔軟に対応できるのが特徴だ。つまり、自由度とスケーラビリティの間には逆相関の関係がある。利用者は、これをうまく使い分ける必要がある。たとえば、自社やそのグループ、その他中小規模のコミュニティレベルに独自仕様のサービスを提供するような、いわゆるプライベート、コミュニティクラウドサービスの構築は、自由度の高い環境を、一方で、コンシューマのような大量の利用者を相手にするSaaSなどのパブリッククラウドサービスを提供するつもりなら、スケーラビリティを選ぶことで、必然的にどちらの形態を選べばよいかが決まる。もちろん、料金は定額から従量制、その組み合わせまで様々だから、これも考慮に入れてサービスを選択する必要がある。

PaaSは、そのレベルによって差異はあるものの、ユーザが自分たちの仕様で自由にアプリケーションを構築でき、なおかつ自分たちが構築したレイヤより下の運用は意識する必要がないため、運用コストの大幅な低減に役立つ。一般に、情報システムを構築、導入する際のコストインパクトは、基本的に減価償却対象である初期投資と、毎年発生する運用コストにわかれ、前者はB/Sつまり貸借対照表上の資産として、後者はP/L(損益計算書)上のコストとして取り扱われる。資産は複数年度で償却され、単年度予算(P/L)へのインパクトは相対的に低いのに対し、運用経費はそのまま単年度のP/Lにインパクトをあたえる。企業のIT部門が運用コストをより削減しようとするのは、そういう理由からだ。特に昨今のような経済状況下で、単年度のP/Lが重視されるような時はなおさらである。これが、大手企業をしてまで、クラウド化に走らせる理由だとしたら、ある意味で、一般企業が利用するのは、基本的には、このPaaSから上のレイヤでなくてはならない。私は、このあたりの整理をあえて、あいまいにする「まやかし」が今の「自称」クラウド事業者の一部にあるのではないかと危惧している。

(続く)

ただ、寡占化がすべて悪というわけではない。IaaSというレベルで、利用者側の視点から見れば、これはクラウドそのものではなく、あくまでシステムを「クラウド化」するための基盤である。それは安価で信頼性が高いものである必要がある。1社で独占されるのは困るが、ある程度体力のある大手が競争している状況が生まれれば、これは利用する企業にとってはいい話だ。この基盤は、企業の情報システムの基盤となるだけではない。後で述べる上のレイヤのサービス事業者のサービス基盤としても利用できるからだ。サービス基盤として考えた時のIaaSも、やはり価格とスケーラビリティが最重要課題である。サービス事業者はこの基盤を賃借して、その上に「付加価値」としての独自サービスを組み立てて売ることになる。このレイヤでもサービス価格は低く抑える必要があるから、基盤の賃借料は安いにこしたことがない。その要求は個々の企業よりも切実だ。つまり、ここでも大手優位の構造が出来上がってしまう。

問題は、現在、乱立気味の中小データセンタの行く末だ。これはかなりお寒いものであると私は思う。大手に対抗できるスケーラビリティを確保し、価格を下げるためには、1社の努力だけではもう無理だ。彼らが選ぶべき道は、仮想化基盤の標準化と、同規模のデータセンタ事業者による相互補完のためのアライアンスしかないと思う。回線だけは借りなければいけないのがネックだが、細い(つまり安い)回線で効率よく通信できる技術もあるから、コストはある程度おさえられるはずだ。これを阻んでいるのが、仮想化環境の相互接続性である。1種類のハイバーバイザですべてそろえるのが最も簡単だが、理想的なことを言えば、仮想マシンとハイバーバイザ、そしてハイパーバイザ間のインターフェイスが標準化されるとより柔軟な構成が可能になるだろう。

ともあれ、これから投資をしてこのレイヤに参入、というのは現実的ではない。あくまで、既にどっぷりひたって、途方に暮れている中小事業者の今後の話である。

では、これから参入する事業者はどうすればいいのか。せっかくIaaS事業者が作ってくれた安価でスケーラブルな基盤があるのだから、これを利用しない手はない。クラウドにおけるIaaS事業者は、インターネットビジネスにおけるISPと同じ存在になるだろうと思う。ISPも最初は乱立したものの、最終的に淘汰が進んだ。むしろビジネスはこうした大手ISPが作った通信網の上に花開いている。これと同じ状況がクラウドでも起きると私は思っている。

 

(続く)

このレイヤを「クラウド」と位置づけて、一生懸命商売をしようとしているのが、サーバメーカーとか、仮想化ハイパーバイザやOSベンダ、そしてそれにのせられたデータセンタ事業者である。ちょっと皮肉っぽい言い方をするが、これは雲の断片を売るようなものだ。先にも書いたが、クラウドの神髄はスケーラビリティにある。たった一社で提供できるようなものを「クラウド」と私は言いたくないのだ。もちろん、日本でも例外的にこれができそうな会社が2~3社はあるのだが、やがては日本でのクラウドは、この2~3社の寡占状態になりかねないなと危惧している。

クラウド基盤の提供、つまり今風に言えば、IaaS (Infrastructure as a Service)は、たしかに事業として面白いが、ユーザがこれに何を期待するかはきちんと見ておく必要があろう。それは、少なくとも今のところはコストダウンだ。しかも、かなり劇的なコストダウンである。しかし、そうしたコストダウンできる基盤を用意しようと思えばスケールメリットを稼ぐしかない。Googleなどを見てもわかるように、そのための投資は莫大だ。その結果として低価格でも損益分岐点を超えて利益が出るだけのユーザを収容できる。日本のデータセンタ事業者は安全性を強調するが、Googleのセンターに勝てるセキュリティを確保できると契約に明記できる事業者は皆無に等しいだろう。そもそもセキュリティとはそういうものである。この話は後半でするつもりだが、クラウドのセキュリティを語る場合には、いくつかの異なる視点が必要だ。ファシリティや基盤のセキュリティはその切り口のひとつでしかないのだ。

話を基盤に戻すが、結局は、処理能力をいかに効率よく配分し、負荷を平準化できるか、ということがクラウドとして見た時の重要な点である。だから、仮想化と大規模な分散環境、そしてそれを支える高速なネットワークが必要なのである。これを今、すべて自社で保有している企業は非常に少ない。持たざるものは借りてくるか自前で作るしかない。いずれにせよ、相当な費用や投資が必要であり、なかなか安い値段では売れない。ならば、と「付加価値」を強調してみても、結局、今の経済状況下では、ユーザに見向きもされない結果となってしまう。少なくとも今は、コスト削減が至上課題だからだ。大手は、この時とばかりに、価格競争に入るだろうから、もし、近い将来、景気がよくなったとしても、その頃にはユーザの多くは大手に囲い込まれてしまっているはずだ。

さて、そうならないようにどうしなければいけないのだろうか。それは、「持たざる」事業者がその命運をかけて考えるべき事柄である。

(続く)

現在言われている仮想化技術の原型はもうずいぶん前に作られている。メインフレーム時代、IBMのMVSというOSは、今で言うハイパーバイザとして機能し、そのうえで複数のOS環境を作ることができた。PCの世界ではVMWAREが、PCのOS上で別の仮想OS環境を起動できる仕組みを、これも比較的早い時期から実用化し、私なども検証用に複数の環境が必要な時に重宝したものである。

仮想化、ということがサーバ側で本格的に言われだしたのは、ここ数年だ。追い風になった要因は様々だが、たとえば、不景気によるコストダウン圧力からTCO削減を目的に始まった、サーバ統合、これは電力消費の削減と平準化という意味ではエコでもあり、それもまた追い風になっている。JSOXなどを皮切りに日本では、BCPの一環として、情報システムの災害対策が一気に進んだが、バックアップシステムを新たに作るにあたって、既存システムを仮想マシン化し、仮想化環境の上で動作させることが多くなっている。

こうしたニーズを受けて、仮想化プラットホームも進化していく。もともと1台のサーバリソースの有効利用だった仮想化は、複数サーバ、しかも遠隔地にあるサーバ間での仕事の受け渡しが、限定的ながらも可能になった。あと少し進化すれば、複数のデータセンタと高速な通信回線を基盤として、データセンタグリッドを作る条件が整う。これができれば、クラウドコンピューティングのスケーラビリティは格段に向上する。しかし、経済的な問題はついてまわる。1社で大規模な複数のデータセンタを配置し、高速な回線を占有できる会社は限られているから、ここでも放置すれば寡占化が進んでしまう。独立系のデータセンタ事業者は、そろそろこれに対抗する策を真剣に考えないと生き残りが難しくなってくるかもしれないと思う。Googleの例を見れば明らかなように、大規模化と負荷の平準化によるハードウエアリソースの削減は低価格化を促すからだ。タイムゾーンが重なる日本でも、多くの異なる業種のユーザを共存させることで、ある程度の平準化は可能だろう。したがって、そのようなことができる一定規模以上のファシリティを用意できない事業者は価格競争に勝てない可能性が高いのである。

 

(続く)

なんとなくネガティブな響きがするが、決してクラウド全般が儲からない、といっているわけではない。現に、大手はかなり利益を上げる商売をしている。問題は、これのまともに太刀打ちしても儲けにならないという点だ。では、どうやって利益を享受していくのか、このあたりは今のところビジネスモデルとからんで、私の会社の企業秘密でもあるから、書くのは最後にしておくことにしよう。

ここで、世の中でクラウドと呼ばれているものを、ちょっと整理してみる。

まずは、漠としたクラウドコンピューティングの広義の意味だ。「クラウド」つまりは、ネットワークの模式図に書かれる雲のマーク。広域通信網、多くの場合はインターネットを意味する絵柄である。つまりは、インターネットを使ってコンピュータリソースを共有し、効率よく、低価格の情報処理を行おう、ということだ。

たとえば、インターネットを使ったグリッドコンピューティング、皆さんご存じの Seti@homeに代表される、大規模な計算を分割してネット上に分散して、大量のPCを使って高速に計算しようという、いわばクラウドスパコンなども、クラウドコンピューティングだと言えるだろう。また、悪名ばかりが広まってしまったP2P技術は、こうしたグリッドの基盤になる技術であると同時にデータ共有、分散処理の基盤にもなりうる。実際、最近のPCグリッドはP2P技術の基盤の上に作られているものも多い。私は、これらの技術が本来のクラウドコンピューティングの最下層の基盤だろうと思っている。今のところ、これらはまだ不完全だが、よりリアルタイムに最適化された分散処理が可能になれば、クラウドの可能性は格段に広がるはずだ。

しかし、こうして多数のコンピュータリソースを統合することが出来ても、大量のデータ解析やシミュレーションのような用途以外では、そこまで大規模な計算能力を必要としない。そこで、リソースをうまく配分して、個々の処理、またはOS環境に振り分けるための処理レイヤ、つまり仮想化ハイパーバイザが必要になる。今のところ、世間ではこのレイヤがクラウドの最下層だと認識されているが、本来ならばこの下に分散リソースの管理レイヤが存在するはずだ。現在の仮想化ハイパーバイザはきわめて限定的な形で、このレイヤを一部サポートしているが、完全ではない。

ともあれ、なぜ、クラウドに仮想化が必須なのか、それは、そのうえで動く環境に意識されない形で、各種のリソースを制御し、配分する必要があるからである。

(続く)

2.混沌とした「雲」

 

「クラウドコンピューティング」が言われて久しいが、最初は比較的形がはっきりしていた「雲」は、どんどん広がって、いまや空一面を覆い尽くして、形も、その先にあるものもよく見えない。ベンダ側は都合よく整理をしているのだが、ユーザから見ると、それがどのように自分の役に立つのかはわかっても、それを自分たちの情報システムにどう位置づけ、どう使っていくのかという点では、まだ整理がついていないのだろうと思う。

 

「クラウド」=「コスト削減」というのが、ユーザ側の入り口だ。コストを下げるのだから、多少は我慢も必要だと思っている・・・、というよりも、経営からの「劇的な」コストダウン要求の前では、そう思わざるを得ないのが実情だと思う。一方、ベンダはいわゆる「パブリッククラウド」だけでは儲からない。大手クラウドベンダのサービスを売るだけでは、ほとんど利益にならない。薄利多売の世界だ。だから、なんとか「付加価値」の名のもとに独自のサービスや仕組みを売ろうとする。しかし、ベースとなる大手クラウドサービスの値段があまりに低いので、それ以上の価格をつけると、それだけでユーザは拒否反応をおこしてしまう。クラウドブームに乗って商売を広げたいが、ユーザにとってのクラウドは「コストダウン」が第一義だから、どう考えても、これまでと同じ投資は得られないし、投資の大半は大手のクラウドサービス事業者に持っていかれてしまう。つまり、リセールモデルは成り立たない。付加価値も安く上げないと売る理由にはならない。つまり、付加価値部分もクラウドサービスとして提供せざるを得ないのだ。

しかし、大手のグローバルなサービス事業者が年間数千億の投資をしているのに比べ、少なくとも日本での事業者が投資できる額は限られている。地理的要因もある。世界を相手にするサービスには大きな利点がある。システムの稼働率を利用者のタイムゾーンに合わせて最適化できるのだ。ひとつのタイムゾーンしかない日本では、利用者のピーク時間帯は集中する傾向にある。毎朝の通勤電車のような状態が、システムにも発生するわけだ。たとば、始業時間直後や終業直前のようなピークに行われる仕事には急ぎのものも多いから、ここでシステムのレスポンスが落ちてしまってはユーザから不満が出る。だから、この負荷にある程度耐えられる規模のシステムを用意するのだが、そうするとピーク以外の時間帯はその半分以下の規模のシステムで十分なほどの負荷でシステムの大半を遊ばせるしかないのだ。これが、設備投資が過大になってしまう理由だ。ある意味、サーバメーカーの思うツボである。故に、価格もあまり下げられない。一方、世界を相手にする場合、ピーク時間帯はかなり分散され、負荷が平準化されるので、相対的なサーバ台数は少なくて済む。うまくやれば日本のピークをさばける程度の能力で世界を相手にできるだろう。そもそも、そういうハンデが、大手事業者と新参者の間にはあるのだ。つまり、張り合うのは無謀であり、新規参入する事業者は、大手を補完するようなサービスで、「コバンザメ」商法に徹するしかなくなるのである。

(続く)

さむっ・・・。

勢いよくベランダの引き戸を開けたら、冷たい風が吹き込んできた。まだ寝ぼけ半分のちょっとした幸せを一気に吹き飛ばされて、ちょっとばかり不機嫌になってしまった俺。

昨日、帰りがけに上司の部長と大口論したあげく、あっさりと言い負けてしまった悔しさがよみがえってきた。真っ青な冬空とは裏腹に、気持ちはどんよりと曇り空、今にも雨が降りそうなお天気。なんとなく会社に行きたくない気分だ。

とはいえ、仕事も溜まってるし、これ以上遅れたら、またあの部長に嫌みの一つも言われるハメになりかねない。しぶしぶ身支度をして家を出た。気分のせいか、余計に寒さがこたえる。マフラーでもしてくればよかったかな。駅に向かう道すがら、マフラーと毛糸の帽子で重武装した小学生とすれ違いながらそう思った俺。しかし、次にすれ違った女子高生は、やはり定番の生足ときた。この落差はなんだ。それにしても俺が一番中途半端な格好じゃないかなどと、ちょっと自嘲気味につぶやいてみる。

 

俺の名前は林幸彦、幸という字を名前に持つ割には、なんとなく幸薄い人生を送っているように思うのは気のせいだろうか。仕事はしがないプログラマー。聞こえはいいが、コンピュータ様にこき使われる身の上だ。そもそも、こんなはずじゃなかった。子供のころから宇宙にあこがれて、ロケットを作りたいと思い続けてきた。でも、ふとしたきっかけで読んだアインシュタインの伝記で、光の速度が越えられないと知り、大ショックを受ける。ロケットを作ったって、わずか4.3光年先のお隣の星まで行くのに何万年もかかっちゃしかたがない。それでは・・・と、エンジニア志望から物理学者志望に乗り換えたのが小学校6年生のころ。ワープ航法の理論を本当に考えるつもりでいた。子供なりに真剣だった。

その勢いで、そのまま某大学の理学部に進んだものの、なぜか算数が苦手でマクスウエル方程式あたりで挫折気味になり、シュレディンガーの波動方程式あたりで死んだふりをするハメになる。あこがれのアインシュタインも曲がった3次元空間を無理やりイメージしようとしてしまう始末で、このあたりで既に真っ白い灰になってしまった。このあたりから俺の不幸は始まったようだ。卒業研究では実験屋になったものの、中途半端に頭で考えてしまい実験結果の解釈に時間を使いすぎて論文もまともに書けず、おまけに悪友たちとのマージャン、パチンコ三昧がたたって3年間も余計に大学に長居するハメになった。念のために言い添えれば、大学院に入ったというわけではない。

卒業後もしばらくは定職もなく、今で言うフリーターとかみたいなことをして過ごしていたのだが、さすがに将来が不安になって、就職したのが、当時猫の手も借りたいといわれていたソフトウエア会社だ。これがまた不幸のはじまりで、エンジニアという名前の奴隷生活がはじまる。何度かの転職で多少状況は改善したものの、性格的に鉄砲玉な俺は、なにかと会社で波風をたててしまう。昨日もそうだ。とあるシステムの設計方法でユーザとケンカして、帰ってきたら部長に小言を言われて口論になった。まぁ、相手は親会社から出向してきた、痩せても枯れてもT大出の秀才。貧乏私大落第生の俺に勝てる相手じゃないのはわかってはいるのだけど、ついつい喧嘩を売り買いしてしまうこの性格は、やはりサラリーマン向きじゃないんだろう。

で、最近よく考えるわけだ。もし、俺がもう少し算数が得意だったらどうなっただろうか・・とか。プログラマーになったおかげで、昔よりも数段ロジカルに物事を考えられるようになった気がする。もちろんそれがたぶん気がしているだけなんだろうということは、昨日の喧嘩の結果が物語ってはいるのだが。

そういえば、パラレルワールドという考え方がある。昔、アインシュタインの特殊相対性理論を勉強してた時、というと格好がいいけど、さすがにこのあたりまでは算数もたいしたことがないのでついていけたわけだ、あくまで灰と化したのは一般相対論についてなのだが、タイムマシンパラドックスとかいう話を先生がしていたのを思い出した。自分がタイムマシンに乗って過去に戻って、昔の自分や自分の先祖を殺したら、はたして自分の存在はどうなるのか・・・というやつだ。つまり過去を変えた結果、現在もかわり、もしかしたら自分も変わってしまったり存在しなくなってしまうかもしれない。でも、そうなったら過去を変える自分も存在しなくなり未来は元に戻って・・・・という繰り返しループに陥ってしまうわけだ。だから、つまり、因果律が成り立たなくなるが故に時間をさかのぼることは不可能であるという話だったように記憶している。しかし、パラレルワールド、つまり、微妙に異なる世界、過去から現在のすべての時点で可能なあらゆる選択肢を取った結果としての無数の「現在」が存在する、という前提と、時間の流れが、アインシュタインのいうように特定の座標系(この場合、自分を基準にした座標系)に固有の流れを持つのであれば、矛盾なく過去に戻ることができる。過去に戻った自分は、今の自分の時間軸で見れば未来にいるから時間の流れに逆らうことはない。しかも、過去に自分が戻った瞬間に過去はそこで枝分かれし、新しい歴史がはじまる。自分を中心にして考えた時間は常に一定に流れていて、それが周囲の時間と違う流れだということだけだし、自分が存在した時間の流れは依然として存在し続けるというわけだ。だとすれば、この世界と並行したどこかで、物理学者になった自分や、ワープ航法を発見してノーベル賞をもらう自分がいる可能性だってある。すべては、過去の偶然の連鎖の結果として。

そういえば、挫折してしまった量子力学の根幹となる考え方に、存在の不確かさの概念、不確定性原理というものがある。たとえば、運動する粒子の位置と運動量を同時に正確に測ることはできない。位置を特定しようとする行為が運動量に影響したり、運動量を測定しようとする行為が位置に影響をあたえたりするから、というのが直観的な説明だが、実際のところは確率論だ。たとえば、昔習った理科では、電子は原子核のまわりをちょうど地球をまわる月のようにまわっていると教えられた。でも、実際は、その電子が原子核に対してどの位置に今いるのかを正確に測ることはできない。その位置にいるであろう確率の分布としてあらわされるのが、量子力学における電子の形だ。だから、電子は原子核のまわりに雲のように分布することになる。エネルギー準位によって分布の形は変化する。電子の軌道はこの分布の雲によってあらわされるというわけだ。

もちろんこれは電子だけの話ではない。質量が軽い電子は、より確率的に振る舞うように見えるだけで、すべての素粒子はその近傍においては確率的に振る舞う。

シュレディンガーの猫という有名な話がある。ちょっとたとえが残酷なので、たとえば、箱の中のコインにたとえてみる。箱のふたをあけたときに、コインが表を向いているか裏を向いているかは、開けてみるまでわからない。そこには裏表それぞれ50%という確率が存在していて、結果はどちらでもいいということしかいえない。しかし、ふたを開けた瞬間に、裏か表かどちらか一方に定まってしまう。ちょうど粒子の存在はこれと同じで、位置を測定した瞬間にその位置に粒子があり、その他の可能性は消えてしまうのだ。もちろん測定する前は確率が支配する世界だ。

そう考えるとパラレルワールドは時間の流れの確率分布と考えることができそうだ。今の自分を導いた偶然の連鎖がどこかで枝分かれしてできた世界が存在する確率はゼロではない。それを計算することは世界中のコンピュータを総動員してもできないかもしれないが、少なくともゼロではない確率で、違う自分がどこかに存在することになる。これは興味深いことだ。

時間が相対的なもので、座標系、つまりこの場合俺自身に固有のものだとすれば、もしかしたら、これは時間そのものが枝分かれしていることになるのかもしれない。俺という存在を基準にすることは、地球を論じるために銀河系全体を基準にするようなもので、不正確きわまりない話なのだが、わかりやすい。実際は自分の体のあちこちでまた時間が枝分かれしているのだが、そんなものをそもそもイメージしようとすること自体、俺が理論家になれなかった理由だろう。いずれにせよ、今の自分のまわりには、雲のように少しずつ違う自分が分布しているわけだ。自分から見た存在確率は、自分に近い自分ほど高くなるはず。でも、これも相対的で、もし違う自分から見た確率を考えればそれは、違うものになるはずだ。こうした結果を招くならば、結論は、すべての確率は均等で、今の自分はまったくの偶然の産物であるということになってしまうような気もする。

でも、それじゃ、人間努力する価値がないじゃないか、俺はそう考えてみる。人間の意思が時間の枝分かれに影響を与えることがあったりしないのだろうか。これは、またミクロとマクロを混同してしまった結果、考えてしまうことなのだが、実際、時間の流れは、その枝分かれの現場を見ることはできないのだろうか。

時間の流れは、少なくとも五感が感じる3次元世界の向きには流れていない。であれば、五感で感じることはできない。人間にとっての時間はそれ自体が不確かで不明確な知覚でしかない。しかし、だから時間は目に見ることができない、と考えるのは早計ではないだろうか。たとえば、物質、素粒子は点でも、連続な存在でもない。ある程度の広がりを持った分布の集まりだとされている。たとえば、これを次元の厚みという観点でとらえるならば、たとえば、第4の次元は我々の3次元と点で交差するのではなく、ある程度の体積を持った空間で交差するとも考えられる。これも確率分布の雲だ。もし、ある瞬間瞬間で、時間と3次元の物質との相互作用で時間の位置が定まり、結果としてそこで時間が枝分かれすると考えるならば、3次元の作用である人間の意志つまり、脳の神経活動という電磁相互作用がそれに影響して、自分の未来を変化させることだってあるかもしれない。いきなり、超能力が使えるようになったり、天才になったりはできないだろうけど、少しずつ未来をかえていくことはできるのではないだろうか。俺がそう考えた瞬間、目の前が明るくなった気がした。

 

ガツン!、いてぇ~、なんだ・・。我に帰った俺の前にあったのは電柱だった。はぁ・・・どこまで俺って不幸なんだろう。しかし、この妄想癖だけはなんとかしないとな。そのうち車にひかれて・・・・、いやいや、物事はポジティブに考えるべきだ。そうしていれば、時間の枝分かれはいい方向に向いていくはずだ。いやそうに違いない。電柱でまだよかったのだ。これはラッキーだと思うべきなのだ。

 

なんだか、目の前の雲が晴れた気がした。

 

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この物語はフィクションであり、実在の人物、団体に関係があるかどうかは確率的です。また、内容には科学的事実と著者の妄想が混在していますのでご注意ください。(笑)

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