所感: 2009年2月アーカイブ

もうはや、明日から3月に突入。年初から、お気楽な生活をさせてもらっているのだけれど、おかげさまで状態はかなり安定してきた。まだ、長時間集中するような作業で少し疲れが出たり、仕事や会社に関することを考えすぎると不安感に襲われたりするようなことはあるものの、そうしたこともだんだん少なくなりつつある。医者からは、もうしばらく気楽に過ごすように言われているものの、正直なところ時々、じれる感じもある。なんとなく浦島太郎の気分だが、もう1月ほどの辛抱(というより考えることをやめておくこと)だと思っている。案外、しばらく会社を離れていて、戻った時に改めて気づくことも多いだろうし、それがこれからの仕事にプラスに働くと信じて、もうしばらく、この生活を続けるつもりだ。

折しも不況のまっただなか。影響を遅れて受けがちなIT産業が本当に苦しくなるのはこれからだ。そのうえ、回復は他の産業が回復した後にならざるをえない構造だから、いままでと同じことをしていたのでは、ダメージは相当大きくなるだろう。なにか、この不況をプラスに変える方法があるはずだ。それをいち早く見つけることが生き残っていく方法だと思う。3月は、リハビリがてら、そんな夢のようなことでも、ぼちぼち考えてみようかなと思っている。

不況も病気も、なってしまったことを悔やんでも仕方がない。その先を見据えて考えることが必要だ。

久々にアドレナリンの出る1週間の北国ツアーより帰宅して2日目。連日の悪天候でも、気分的には落ち着いている。今は、まだ残っている筋肉痛や疲れをとるべく、のんびりとテレビなどを見ながら過ごしている。

そのテレビで連日報じられているのが不景気な話と迷走する政治の話ばかり。こちらのほうは、聞くたびに不安が募る。

昨日、CSのニュース系チャンネルの解説で面白いことを言っていた。現在、政府紙幣発行の議論があるが、それにからんでの話。貨幣の価値は、もともとは金などとの交換を前提に保障されていたのだが、現在の不換貨幣にあっては、その発行元である国家、中央銀行の信用力のみに頼っている。つまり、この信用力がなくなれば、貨幣は現物との交換において価値を失い、貨幣価値の下落=物価の上昇つまりインフレをまねく。解説の先生いわく、貨幣そのものがそもそもバブル(的な構造)であるのだそうだ。このバブルを崩壊させないように微妙なバランスをとりながら、貨幣の流通量を調整しているのが、中央銀行つまり日本では日銀である。不況は一般にデフレを伴うから、金融緩和策などで貨幣の流通量を増やして、相対的に貨幣の価値が下がる方向に微調整するのだが、やりすぎると今度はインフレを誘ってしまう。ほぼゼロ金利状態の現在、いまだデフレがやまないため、これ以上対応しようとすれば貨幣を追加発行するしかない。しかし、これをうっかりやると、貨幣価値の暴落を引き起こしてインフレを招いてしまう。不況化のインフレは最悪である。まして、それを中央銀行ではなく政府が(というよりは政治家が)やってしまうことはあまりにもリスクが高い。大恐慌当時の米国を引き合いに出す政治家も多いが、思うに、あれは米国だからできたことなのではないだろうか。海外依存が極端に大きい日本にあって、単独でそうした政策をとることにどこまで意味があるのか疑問が生じる。円安誘導の意味もあるのかもしれないが、現在の輸出産業の不振は円高よりも、相手国の需要減少が大きいはずだ。多少円安に振れても輸出は大きくは増えないだろうし、逆に貿易摩擦など厄介な問題に発展する可能性もある。間違って円が暴落すれば、資源を輸入に頼っている日本はただちに苦境に陥るはずだ。

少なくとも、現在の政府が国民から信頼されていないことは世論調査などを見ても明らかだ。そんな政府が勝手に紙幣を発行したら・・・・と思うとちょっと寒い。口先だけならまだしも、実際に実行すれば大きなリスクが伴う。政治家が軽はずみな動きをしないよう祈りたい。

聞いた話だが、PCやネットなどのデジタル技術への親密度、習熟度を世代別に3つに分け、「デジタルディバイド」「デジタルイミグラント」「デジタルネイティブ」と呼ぶらしい。デジタルディバイドはいうまでもなく、急速なデジタル化に取り残されつつあるアナログ世代。イミグラントはアナログ時代に生まれ、途中からデジタルに接してそれにある程度習熟した世代。そして、ネイティブは今の子供たちや若者。物心ついたころからゲーム機やパソコン、携帯電話などに接して、育った世代である。

昨日、某政府系の会合に出ている時に思ったのだが、今、高齢化にともなう「デジタルディバイド」世代にやさしいデジタル機器をどうするか・・・という話は一般的になっている。しかし、ふと思ったのは、逆に野放しになりつつあるデジタルネイティブ世代のことだ。彼らは、もうこれらを自分の一部として使いこなしている。使い方は様々だが、中には危ない使い方も多い。もちろんこうしたことも社会問題にはなっているが、その議論の中心はデジタルイミグラント世代の中でも、どちらかといえばディバイド世代に近いほうの人たちだ。彼らは(私もそのたぐいだが)ディバイド対策は考えられても、ネイティブ対策を本当にきちんと考えられるのだろうかと、ふと疑問になった。学校への携帯持ち込み禁止の議論があるが、これは本当に正しいやりかたなのだろうか。最近、親がフィルタリングを設定しても、子供が外してしまうというようなことも多いようだ。親や教師の世代には、そのことが「悪」として映るのだろう。しかし、こうしたものを自分の一部として使いこなす能力は、将来、デジタル技術がより進歩した際に必ず開花する。潰すのではなく、正しい方向に導いてやることこそ必要だ。ネットにある危険をきちんと教え、それから身を守る方法を教え、モラルを身につけさせる。これは、一般の社会生活では、行われている教育なのに、なぜ、デジタル世界ではできないのか。それは、イミグラント世代がネイティブ世代についていけていないからである。つまり、イミグラント世代の一部は新たなデジタルディバイドに直面しているのだ。しかも、それは子供たちの将来、ひいてはこの国の技術力、創造力の将来を左右する重大な問題だ。

イミグラント世代の中でもネイティブに近い人たちもいる、当面はそうした人たちが中心となってネイティブ世代を正しく育て、そしてネイティブ世代の中に新たな指導者層を育成していく必要があるのだと思う。セキュリティキャンプのようなそうした取り組みは一部では始まっているが、教育界も巻き込んだ形での、もっと大きな国家的取り組みが必要だと思う。

 

これまた二転三転の上の辞任劇。海外メディアは問題の会見シーンの大写しをまた流して報道。ついでに、内閣支持率にも言及。先進国中最悪のGDP減少は、この迷走政治と無縁ではあるまい。ここまで信頼を失いながらも居座る現政権もさることながら、その足を引っ張り続ける民主党にも少し辟易している。麻生が降りても自民党にとって解散はありえないだろう。このままあと半年、国政の足を引っ張り続けたら民主の株もかなり下がるはずだ。当然自民はそれを狙っているだろう。多少難があろうとも、まず予算を通して、それから追加対策なりをどんどん打ち出していくことだ。そういう必要な妥協ができなかったから、昔の社会党は万年第二党に甘んじたのだ。本当に二大政党政治を目指すのであれば、民主はここらで戦術を変えるべきである。米国の共和党は反対姿勢を明確にしつつも、若干の修正を入れて予算を通した。オバマ人気にとことん逆らうのは得策ではないとの判断もあっただろうが、まずは社会不安、市場の不安を緩和することを第一にした判断だろうと思う。

永田町界隈が迷走する中、この国の状況はどんどん悪化している。連日ニュースをにぎわす凄惨な事件の頻発もこれと無縁ではあるまい。政局に夢中になっている政治家たちよ、そろそろ目を覚まして周囲をみまわしてみるがいい。

某総理が、昨日、日本経済についてそうのたもうたらしい。

「悪い悪いと騒ぐから余計に悪くなる」という人はたしかに多いが、そういう人に限って、生活実感としての不景気を感じていない人だったりする。

日本が1番に回復できる・・・・という話も、日本の経済構造をちゃんと理解しているのか・・・と疑問になる。日本経済を支えている主要な産業は多くが外需、特に米国依存だ。こうした産業の回復は米国の経済回復なしにはありえないだろう。企業業績はリストラで黒字化できたとしても、そのために多くの雇用が失われる。つまり、今の日本経済の体質からいえば、悪化が遅れるかわりに回復も遅れると見るのが妥当だろう。つまり、いまの状態はもう一段悪くなる可能性が高く、回復は米国、中国、EUなどが回復したあと・・・というのが最も悲観的だが現実的な見方じゃないかと思う。

本当に早期回復させたいなら、経済を内需体質に変えていくしかないのだが、そのためには相当抜本的なことをやらなければならない。単に一時的に給付金をばらまいたり、一時的な雇用(その多くが契約労働者など一時的雇用)しか生み出さない道路工事などの公共事業ではなく、長期的な雇用を生み出すような新しい事業の立ち上げを支援することが、回り道のようで、実は近道なのではないか。

たとえば、食料自給率を上げるための農業の大規模化、環境対策のための事業、新エネルギー開発事業などだ。今の日本の縦割り行政は、改革という面では保守的すぎるようだ。となれば、政治主導で進めるしかないのだが、首相の発言を聞いている限り、今の政権にはこうした政策を総合的に考えられるブレーンはいなさそうだ。そんな状態で、政治が表に出るとかえって状況は悪化しかねない。

なんとなく寒さが身にしみる冬である。

天下りの定義

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昨日の国会議論を聞いていて思ったこと。

なぜ「天下り」が悪いのか、という論点がだんだんずれてしまっている気がする。そもそも、天下り先が天下った人間に高給を払うのはなぜか。これは、その人間と官庁の、しかも所管する官庁とのコネクションもしくは、受け入れたことに対する暗黙の評価を期待してのもののはずだ。それが不公正を生む可能性が、そもそも天下り議論の発端だったはず。今はどちらかというと、「天下り」「渡り」の議論が自己目的化されてしまっているように見える。昨日の総理答弁にそれが端的に表れている。官房がからまなければ「天下り」ではないとか、民間の動きに政府が干渉できない・・・とか、これは問題のすりかえ以外のないものでもないだろう。

民主党が言うように実態調査はすべきだ。同時に、その人間の諸官庁への影響力評価も含めて。報酬と、影響力の間に相関関係が出たら面白いと思うのだが・・・

これは、昔読んだ「スヌーピーとチャーリーブラウン」の英語対訳版に書かれた、ウッドストック(鳥さん)の言葉だ。直訳して考えれば「渡り? 鳥の話だろ」くらいの感じなのだけど、実は、For the birdsには、ばかばかしいという意味合いがあるらしい。つまり、ウッドストックは鳥のくせに、「渡りなんて・・・」と馬鹿にしたわけだ。

しかし、同じ「渡り」で政官界が揺れている。「天下り」という言葉もあるが、こっちは官が民を低く見ていることをつぶさに証明する言葉でさらにわけが悪いと私は思っている。役所を早期退職して民間や外郭団体へ入り、数年務めて莫大な退職金をもらって、次へ・・・。庶民感情的にいえば、こんな「ばかばかしい」話はない。

ただ、ちょっと注意が必要なのは、いわゆる「公務員制度改革」の焦点が「天下り」「渡り」の問題ばかりにあたっていることだ。何十年も続いてきた官僚機構の慣習を変えるためには、それが必要になった原因を元から断たなければだめだ。もしかするとこれによって、官僚組織は根本的な変化を要求されるかもしれない。もちろんできるならそうしてほしいし、見識のあるブレーンを持った政治家が政策を主導する形はあっていい。だが、中途半端に終われば、政治家は自分で自分の首をしめかねない。トップの大臣のその分野での指導力が問われるだけに、これまでのようなポストのたらいまわしは難しくなるだろう。つまり、官僚機構をいじるのなら、政治家の側も、これまでの官僚依存から脱却しなければならない。さて、今の与党(総理)はその覚悟があるのだろうか・・・・。まさか、もうあまり長く政権を維持できないと悟っての「焦土作戦」だったりしないだろうなぁ・・・・。

なんとなくすべて国民不在で回っているように見えて怖い。